中之島の、そして大阪市のシンボルともいえる公会堂。かつて、その誕生のために莫大な私財を投じながら、完成を待つことなくこの世を去った人物がいた。それが、「義侠の相場師」ともいわれた株式仲買人、岩本栄之助である。
岩本栄之助は1877年(明治10年)、大阪市南区(現在の中央区)にあった両替商「岩本商店」の次男として生まれた。
小学校を出て進学した大阪市立商業学校を卒業後は、外国語学校などに通う傍ら家業の手伝いを始めるが、1904年(明治37年)に日露戦争に出征。除隊後の1906年(明治39年)3月に家督を継ぎ、正式に大阪株式取引所の仲買人として登録されることになった。
栄之助が仲買人となった直後の1906年(明治39年)5月、北浜の大阪株式取引所を日露戦争終結に端を発する空前の暴騰が襲う。株価は急騰し「買えば必ずもうかる」とささやかれた。
このとき、北浜の仲買人の大半は、いずれ暴落することを見越して売方に回っていた。しかし、株価の暴騰は止まらず、多くの仲買人は破産寸前の状況に追い込まれることになる。そこで彼らが頼ったのが栄之助であった。手堅く買方に回っていた彼に売方に転じてもらい、株価を下落させようとしたのである。買方として得た利益を吐き出してくれというこの常識外れの懇願を栄之助は快諾。「父親の代からお世話になっている皆さんへの恩返しだと思って協力しましょう」と答えたのである。
この結果、翌年1月21日に株価は大暴落。売方である北浜の仲買人は破産を逃れ、莫大な利益を手にし、栄之助自身も大きな利益を得たのである。北浜の仲買人らは、「岩本さんには足を向けて寝られない」と感謝したと言われている。
また、「学問せなあかん」が口癖の栄之助は、証券取引所で働く少年たちのために、学校に行くように勧めると共に、私財を投じて塾を作るなどしたため、ますます人気が出ることとなり、「北浜の風雲児」と称えられた。
その栄之助が、仲買人として働き出した当初から強い関心を抱いていたのが、株で得た利益を公共のために活かすことであった。そうした栄之助の思いをさらに強くしたのが、1909年(明治42年)の「渡米実業団」への参加である。
1914年(大正3年)に株式仲買の第一線から身を引いた栄之助であるが、翌年には再び株式仲買の世界に身を投じる。しかし、第一次世界大戦勃発の影響による高騰相場で、莫大な損失を出してしまう。周囲の人々は、大阪市に寄付した100万円を少しでも返してもらうように勧めるが、栄之助は「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」としてこれを拒否。1916年(大正5年)10月、自宅でピストル自殺の道を選ぶ。栄之助が生死をさまよった5日間、彼に恩義のある北浜の仲買人らは、大阪天満宮で夜通しかがり火をたいて無事を祈ったが、10月27日、栄之助は享年39歳でその人生を終える。
栄之助が夢見た公会堂は、その死から2年後の1918年(大正7年)年11月に完成。現在は国の重要文化財にも指定され、いまなお市民の文化・芸術の活動拠点として親しまれている。
岩本栄之助 辞世の句 「その秋をまたでちりゆく紅葉哉」
1909年(明治42年) | 岩本栄之助氏、渡米実業団の一員としてアメリカ視察旅行に参加。実業家が私財を公共事業に出捐していることに感銘を受ける。 |
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1911年(明治44年) | 岩本栄之助氏、公会堂建設資金百万円(当時)を大阪市に寄付。同年、大阪市は(財)中央公会堂建築事務所を開設。 |
1912年(大正元年) | 「懸賞金付き設計競技」を実施。早稲田大学教授・岡田信一郎氏の提案が一等に決定。 |
1913年(大正2年) |
岡田氏の案を基に、東京駅の設計者・辰野金吾氏と片岡安氏が実施設計。 同年工事に着手。 |
1918年(大正7年) | 10月竣工。11月、開館。 |
1919年(大正8年) | ロシア歌劇団「アイーダ」を公演。 |
1922年(大正11年) | 声楽家、三浦環氏「お蝶夫人」を公演。 |
1923年(大正12年) | イタリア歌劇団「椿姫」を公演。 |
1943年(昭和18年) | 第二次世界大戦中の金属供出により、エレベーター・階段手摺り・シンボル像が撤去される。 |
1945年(昭和20年) | 大阪大空襲。被災者収容のため、公会堂の本来業務停止。 |
1946~1949年 (昭和21~24年) |
戦後、政党や労働組合を中心に多くの集会や講演会が開催される一方、ジャズや流行歌がもてはやされ公会堂は連日賑わった。 |
1955年(昭和30年) | ヘレン・ケラーの講演会開催。 |
1962年(昭和37年) | ガガーリン大佐の講演会実施。 |
1968年(昭和43年) | 公会堂50周年を迎える。 |
1978年(昭和53年) | 60周年を迎えたこの頃、建物の保存について、大阪市は調査研究のため検討委員会を組織。 |
1988年(昭和63年) | 大阪市長、公会堂の永久保存と活用について表明。 |
1989年(平成元年) |
朝日新聞社が創刊110周年記念事業の一環として、中央公会堂の保存運動を展開。 呼びかけに賛同した企業・団体・個人有志から募金が寄せられた。 |
1990年(平成2年) | 公会堂の将来構想を検討するため、大阪市は委員会を設置。 |
1996年(平成8年) | 保存・再生の基本設計がまとまる。 |
1997年(平成9年) | ゴルバチョフ氏の講演会実施。 |
1999年(平成11年) | 3月工事に着手。 |
2002年(平成14年) | 9月完成。11月より使用を再開する。12月には、公会堂建築物として西日本で初めて国の重要文化財に指定される。 |
(※昭和46年6月の中之島東部開発については、歴史的な建造物を破壊し、景観を損なうとして問題化した。中之島東部の景観保存を要望していた日本建築学会近畿支部は同年9月に保存要望書を大阪市に提出。この景観保存運動は、建築家をはじめ、歴史家や都市計画学者、文化人・法学者なども加わり、大きく展開された。)
昭和40年頃からは、明治・大正期の歴史的建築物が連なる中之島東地区において、景観保存や再開発に関する議論が市の内外で高まり、中央公会堂についても建替や外壁保存案も含めた将来のあり方に関するシンポジウムなどが度々開かれるようになっていた。
公会堂の保存の方向性としては、建物を保存しつつ機能を拡充し、公会堂として利用すること、耐震補強に免震構法を採用することが、まず考えられた。また、将来にわたって公会堂としてよりいっそう活用できるように整備することを基本方針とした。
また、今後とも長期にわたって活用していくため、防災・避難面などの安全性の確保や、空調設備の向上をはじめ、多様な用途に対応できるよう音響、照明設備の改善や舞台機構の充実などを行うこと、安全で使いやすい建物とするため、エレベーターやスロープなど、ユニバーサルデザインの観点からの整備に努めることにも注力した。
平成11年より始まった大阪市中央公会堂の保存・再生工事は、歴史的建造物としての保存と、創建当時への復元改修に加え、古い建築物に高い耐震性能を蘇らせる「免震レトロフィット構法」を採用するなど大掛かりなものとなった。また、内部には創建当時の構造や調度品が残され、改修工事にも公会堂に愛着を持った人々が携わっていたことを教えてくれる。
こうして平成14年に完成し、美しく蘇った大阪市中央公会堂は、中之島の景観に欠かせない美しい外観と内部意匠が、歴史的建築物として極めて需要であるとの評価を受け、同年12月、公会堂建築物として西日本で始めて、国の重要文化財にも指定されている。
多くの人々に支えられてきた中央公会堂は、これからも「大阪のシンボル」として、人々を魅了し、受け継がれていくことだろう。